80年代90年代ローリング族が「生き残った」と言う理由

こんばんは、ケインです。

youtubeで「自分のことを80年代の峠の走り屋の生き残りとか言っちゃってるカッコつけてるバカ野郎どもだな(中略)もうほんと腹たつ」とか絶賛誹謗中傷されているところですが、前回ホワイトベースさんから「生き残った、と表現されているのはどういう事でしょうか」とXで質問されて、その時の回答ではうまく言語化出来なかったんですよね。
それで少し考えてみました。そうしたら割とすぐに答えが出てきました。

ローリング族とは思想信条であり、信仰である。

誰に頼まれているわけでもないのに信心の深い人は毎日仏壇に手を合わせたり、神社にお参りに行ってお賽銭を納めたりするでしょう。それと同じで、ローリング族は峠のコースに毎日のようにお参りして何度も同じローリング行為を繰り返す。
免許が無くなったり、足や腕が無くなったり、命を落としたり、社会的地位を失ったりするリスクがあるにもかかわらず、それでもローリング行為をやめないというのはもうこれは理屈じゃなくて思想信条であり信仰に他ならないんです。だからいわゆる走りのスポットを「聖地」と呼んだりする。

前述したようにこの思想信条、信仰を持ち続けることにはリスクが伴います。転けて怪我して止める人もいるでしょう。逮捕されて悔い改める人もいるでしょう。金と時間を無駄にしただけだと言って去っていく人もいるでしょう。そうした選抜をくぐり抜けて現在に至る道を歩んできたからこそ、「生き残った」という表現になるわけです。

ローリング族は反社会的な存在ですが実際にローリング行為を行うローリング族はほぼ絶滅した現代においては、かつてローリング族であったという共同幻想を後生大事に抱えて現世を生きるということは完全に思想信条の問題なので、その内心の自由を制限することは誰にも許されません。

だからローリング行為をしている動画を見て当時の世代じゃない人が「あの程度僕にも出来ます」とか言っても、それは単純にライディング技術の話じゃないんですよ。あの動画の中で走っている彼は多分その場所を何百回何千回と往復してそれこそ修行しているわけで、それはもはやライフスタイルの話なんだから同じライフスタイルが出来もしないのに出来るというのは滑稽以外のなにものでもありませんね。

 

 

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