バスと自転車の問題を契機として法律とはなにかを考えてみる

いきなりですが、ツイッター(X)で「冤罪の死刑判決のように究極に不当なものでも、死刑の最高裁判決さえ出れば(判決を受けた人は)当然に受け入れるのか」というポストをしている人がいましてね。私としては「そんなもん本人は当然受け入れる必要なんてない」と思ったんですが、結構多くの人が「受け入れるべき、それが法治国家の定めだから」という趣旨のリプライを返しているんですよ。

まあ貼っちゃうんですけれど。

なんかこれ自体はれいわ新選組の沖縄基地問題に関連したポストみたいだったようで、私個人としての思想は明確に右寄りなので沖縄の基地問題にもれいわ新選組にもネガティブな立場でそこに賛同はできないんですが、それとこれとは別。思考実験としてはなかなか面白いポストだと思ったんですよね。

最高裁が(あるいは法律がと言い換えても良い)決めるのは国が強制力をもってどうするか(この場合は死刑を執行)ということであって、執行される側が判決なり法律そのものを内心の自由を踏んづけてまで受け入れるかどうかは全くの別問題であることは明白なんですよ。受け入れないんだから反論したっていいし、主張をしたっていい。法律で決まっていることだから法律に従え、なんて台詞は一見正しいように見えて実のところは思考停止以外の何者でもないんですよ。法律と物事の正しい間違っているは別の次元の話なのです。

もっとわかりやすくするならこれはたとえ話ですが、あの有名なチェ・ゲバラがキューバ革命活動中に歴史とは異なって途中で逮捕されて投獄されてしまい、最高裁で死刑を宣告されたとしましょう。で、それを不満に思った反乱分子が違法な暴動を起こしてゲバラを牢獄から脱獄させ、その結果として歴史通りキューバ革命が成就したとします。ゲバラは確かにいろいろな法律に違反してはいることになりますが、だからといって死刑になることはないし、キューバ国民から彼が批判されることはありません。法律は正誤や善悪の物差しにならないという一例です。

さて長々と前置きしましたが、前回の記事で書いた自転車とバスの問題です。

バスが自転車に幅寄せ?都民の森を走る自転車に対してホワイトベース二宮祥平が辛辣発言!?

これにも色々な意見がありました。まずは「自転車は法に則って粛々と義務を果たして運転しているに過ぎない。見通しの悪い場所でバスが追い越したのが悪い」というもの。もっと見通しの良い場所で安全に追い越すべきだという意見ですね。それについては、あんまりこういう言い方はしたくないんですが、この道路を何回も走っているyoutuberの人も「(曲がりくねっている道路なんだから)ここじゃなきゃ追い越せる場所なんか無いよ」と言っているわけです。それに対するさらなる反論としては「実際に追い越せないで停車しているんだから追い越す判断が間違い」というものになるようですが。ならバスは止まらないでそのままギリギリで行けば良かったんかいな?と疑問に思ったりしますがそれはさておいて。

しかしその「追い越すな」の主張は自転車側に追い越させてあげる気がサラサラない(遵法・合法だからそんな義務はない)ことに対して批判が多い現状と真っ向から対立しています。なので私の主張としては追いつかた自転車に何らかの新たな法的義務を課したほうが良いんじゃないか?現行の法律の枠組みは間違っているんじゃないのか?というもので、そこで法改正アイディアの一例を出してみます。

「乗り合いバスに追いつかれた軽車両は、追いついた車両が当該軽車両の追越しを開始した場合その追い越しが終わるまで徐行し、もしくははみ出しての追い越しが禁止されている道路においては乗り合いバスが側方を通過し終わるまで停車しなければならない」

ツイッターに出したものとは少し変えています。自転車はバックミラーも必要ないし前しか向いて走っていないんだから、後ろのことなんて気にする必要がないという意見があったので、せめて横に並ばれたときなら気がつくだろうかと。出したアイディアに対して議論が起きるというのは私の目的の一つなのですが、アイディアを出すこと自体に対して「現行法が気に入らないんだったら自分で法律を改正してください」という返答が帰ってくるというのはかなり的外れで苦笑いしています。

あの動画の道路は全線はみ出しての追い越し禁止道路なのですが、道路の幅員的にバスが安全な側方間隔を保った状態でセンターラインをはみ出さず自転車を追い越すことは不可能です。なので自転車が車道を走り続けていることで結果として後ろを走るバスに「自転車と同じ低速で追従する」か「違法な追い越しをする」かの二択を強要していることになります。ところがそういう現実を指摘したところ、主に自転車を擁護するスタンスの人からは激しい反論がありました。根底となる考え方にはやはり「自転車はルールを守って走っているんだからそれ以上他から要求される謂れはない」という思想があるようです。いやどう反論されようが、一人しか乗っていない自転車のために何十人も乗っている乗り合いバスがのろのろ運転を強いられるのなんて倫理的におかしいでしょ!?自転車のひと一人が譲ってあげれば解決する話じゃないですか。譲ってあげる義務がないというのなら譲る義務が発生するような法律になるべきだと、私のように主張する人が出てきたったなんの不思議もありません。でも自転車を擁護するスタンスの人は、そういった議論そのものを封殺したいようです。

どうもよくわかりませんが自転車に乗る人にとっては現行の道交法というのは最高速度も決まっていないし住心地が良いということなのでしょうか。でも法律というものは生き物と同じで刻々と変化するものです。自転車乗りの方が公共の交通との間にマナーや譲り合い精神では解決し得ない問題を自ら発生させている以上、その結果として自転車に不利益となるような道交法改正の声が上がるのは至極当然かと思うのですが。

まあ私個人の意見なんてザルですし所詮戯言のたぐいに過ぎないので気に入らない人はスルーしていれば良いと思うんですが、スルースキルの低い人にとってはそんなに目障りなんでしょうか(笑)

 

 

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